2021年1月27日水曜日

節分会(せつぶんえ・豆まき)

  節分は立春・立夏・立秋・立冬の前日を指す言葉で、もともとは季節の変わり目を意味した言葉です。それがいつのまにか春の節分を意味するようになりました。

 節分では「豆まき」と「鬼」がセットで登場しますが、これは2つの行事があわせられていることによります。

 鬼を追い払うのは中国に倣った「追儺(ついな)」「鬼遣らい(おにやらい)」という儀式によります。悪鬼に扮装した人を弓矢などで射たり追い回すことで、災いを追い払うという儀式です。最初は平安時代の宮廷で行われていたものが、諸国の社寺に伝わってきたものです。これは大晦日の夜に行われていた儀式です。

 節分の翌日は立春で、陰から陽に転じていく節目であり、旧暦の正月でも大晦日の陰の極みには諸々の悪鬼が潜んでいるとされ、それを打ち払うことによって正月には生気を取りもどし発展しようと願ったといいます。


 この行事が室町時代、農民の間に広がっていく時に一年が終わり新しい年が始まると考えられていた立春の前日の節分に行われるようになってきたとあります。

 これに豆まきが加わったのは、「散米」と呼ばれる神事儀礼によるもので、米が豆と代わっていったとする説や、毘沙門天(びしゃもんてん)が鬼を退治するために、大豆で鬼の目を打った(魔の目?魔を滅?=まめ?)というような伝説によります。

 私たちの門流においても江戸時代の記録によれば、旧暦の12月20日くらいに行って、世俗の風習である「方違い」のお講として豆まきをやっていたとあります。

 ところで、日蓮聖人の認(したた)められたご本尊には「鬼子母神(きじもじん)」「十羅刹女(じゅうらせつにょ)」という仏さまを守る神様がいますが、元々は恐ろしい悪鬼でした。どんなに恐ろしい悪鬼も法華経の教えを信じることにより、諸天善神となって私たちを守護する。「以信得入」(いしんとくにゅう)を意味しております。

 また、33才の厄年を迎えたご婦人から、息災の祈念を依頼された日蓮聖人は、

法華経へみちびかれさせ給ひ候へ。三十三のやく(厄)は転じて三十三のさいはひ(幸)とならせ給ふべし。七難即滅七福即生とは是れなり。

法華経の教えに導かれれば、33の厄が転じて33の幸いとなるでしょう。〝7つの災いがたちまちに滅して7つの幸福がたちどころに生じる〟というお経もありますよ」と返信されています。

 「災い転じて福となす」という故事もありますが、法華経の解釈にも「変毒為薬(へんどくいやく)」という考えがあります。毒も名医の調合次第では薬となるという意味で、私たちにふりかかる災いや悩みの種も、心の持ちようで乗り越えることができる。そうした心を養うために法華経の信心に励みましょうということです。

 世の中のあらゆる出来事も、実はコインの両面、表裏一体。様々な縁(えん)から生じる心の変化でどちらにも行き来できるのです。

日蓮聖人は、苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて、南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ。これあに自受法楽にあらずや。」と仰せです。

 私たちは欲深いので、嫌なことを他人に押しつけ、楽しいことは自分で独占しがちです。法華経を信ずるものは、苦楽共に引き受ける、これが法華経の悟りを楽しむ姿ですよ、ということです。

 私たちの門流は節分会で「福は内、福は内」とだけ発声し豆をまいていますが、上述の法華経の精神に照らし合わせると鬼も引き受け神と為す、「鬼も内」かもしれませんね。

 当寺の節分会では、年男、年女、厄年に該当する方が裃(かみしも)を着用し、豆をまいてもらっています。あわせて「厄払い」「無病息災」を祈念し、終了後にお供えの豆で作った呉汁やおみやげのお菓子が参詣者にふるまわれます。

どなた様もお気軽にご参詣くださいませ。



2021年1月12日火曜日

不思議(妙法)に感謝

源流院主管 坂井信登


 新春勤行会 拝読御書「種々御振舞(おんふるまい)御書」

各々思ひ切り給(たま)へ。此の身を法華経にかうるは石に金(こがね)をかへ、糞に米をかうるなり。仏滅後二千二百二十余年が間、迦葉(かしょう)・阿難(あなん)等、馬鳴(めみょう)・竜樹(りゅうじゅ)等、南岳(なんがく)・天台(てんだい)等、妙楽(みょうらく)・伝教(でんぎょう)等だにもいまだひろめ給はぬ法華経の肝心、諸仏の眼目(がんもく)たる妙法蓮華経の五字、末法の始めに一閻浮提(いちえんぶだい)にひろまらせ給ふべき瑞相(ずいそう)に日蓮さきがけ(魁)したり。わたうども(和党共)二陣三陣つづきて、迦葉・阿難にも勝れ、天台・伝教にもこへよかし。

 令和三年、そして末法のご本仏・日蓮大聖人ご生誕八百年の新春を迎え、法華衆の皆さまと共に、本門のご本尊に法味言上(ほうみごんじょう)申し上げられましたこと大慶に存じます。あけましておめでとうございます。

 正月は妙の一字のまつり(祭)と申します。

「まつり」とは「祀(まつ)る」の名詞で、神に象徴される超自然に対し、感謝・畏敬(いけい)・鎮魂(ちんこん)の祈りを込め、その念いを供物や行為として捧げることです。

 では、妙の一字のまつりとは具体的にどんな祭りなのでしょう?

 言うまでもなく、「妙」は「妙法蓮華経」五字の一字です。とりわけ妙の一字が正月に配当される意義は色んな説明の仕方があると思いますが、日蓮大聖人は、

 天台(てんだい)云(いわ)く「妙とは不可思議(ふかしぎ)に名づく」等云云。又云く「夫れ一心乃至(ないし)不可思議境(きょう)の意(い)此(これ)に在(あ)り」等云云。即身(そくしん)成仏(じょうぶつ)と申すは此是(これ)なり。(『始聞仏乗義』)

 〝妙とは、私たち人間の言語や思慮が到底及ばない不可思議という意味である。その不可思議な境地は一念三千、すべての人の心に宿っている。〟との天台大師(てんだいたいし)の解説を採用され、「これを悟るのが即身成仏の法門ですよ」と仰せになっています。

 すると、私たちは日々、不思議な法に南無(妙法蓮華経)していることになります。不思議とは…?

 毎年初日の出が見える絶景スポットには、雲霞(うんか)のごとく人々が押し寄せます。お寺の周辺は高層建造物がないので私は自坊から拝めます。さらに、空気の澄み切った冬場は二階のベランダから富士山の頭頂がクッキリ。初日の出と初富士が同時に合掌できるので、新春は、とても清々(すがすが)しい、ちょっと贅沢(ぜいたく)な気分に浸っています。

 ところで、神々(こうごう)しく拝する「初日の出」も、元旦に限られた特異な現象ではありません。太陽が東から昇り、西へ沈む。三六五日、絶え間なく続くこの世で最も「当たり前すぎる」自然の営みこそが実は「不思議」、すなわち「妙法」なんです。

「最近お日さま昇らないね」…地球の自転が停止したということですね。何が起こるか。すべての物体は弾丸(だんがん)や音速を超えたスピードで急ブレーキをかけた状態(慣性(かんせい)の法則?)から、地の果てに叩きつけられ一瞬にして人類は絶滅。従って、こんな会話が交わされることはありません。

「妙法蓮華経」の五字は、宇宙・生命を構成する要素「地水火風空(ちすいかふうくう)」の五大(ごだい)を表します。塔婆や墓石の先端が五輪(ごりん)の形をしているのは、それを化儀(けぎ)として模(かたど)っているからです。

 土台である地球は、水・火(陽)・風・空が、相互に奇跡的(不思議)なバランスを作用させることで生命が育まれおりますが、私たちの身体(生命)に似ていると思いませんか?

 五感が働き、手足を意のままに動かせ、目が見え、耳が聞こえてくれること、休むことなく血液が流れ、心臓が動いてくれていること、生き、生かされている…すべてが不思議で素晴らしいことなんですね。これを一つでも失えば耐え難い苦しみを抱えます。それも逃れがたい四苦生老病死)の定めから、やがてはすべての人の身におとずれます。

 私たちは日々この営みを不思議とは思わず、当たり前と暢気(のんき)に過ごしている…。皆さんは決してそうではありません。

 「妙法蓮華経」がこの不思議と不二(ふに)であるならば、五大や生命(いのち)ある不思議に「南無」している、すなわちお題目を唱えているからです。

 ご承知の通り、南無とは帰命(きみょう)の誓い、そこに「感謝」の心を宿らせることが「乃至法界平等利益(ないしほうかいびょうどうりやく)」であり、法華経のもっとも大切な精神です。

 私たちは、当たり前を失って初めてその有り難さ、不思議に気づく〝題目唱えの題目の心知らず〟に陥りがちな凡夫(ぼんぷ)です。

 「寺院参詣の大事」「法燈相続の推進」、法華講衆の掲げる指針も「よからんは不思議」の限られた時において為(な)せる仏道修行と心得られますようお願いいたします。講衆ご一同の信心倍増、現当二世(げんとうにせい)を祈念申し上げ、年頭の辞といたします。

(寺報「源流」令和3年正月号巻頭言より)

奉祝 日蓮大聖人御生誕800年