2月16日は、日蓮大聖人がご誕生された日で、特に今年は、御生誕800年という大変おめでたい節目となります。
貞応元年(1222)、安房国小湊(あわのくにこみなと=現在の千葉県鴨川)において、貫名次郎重忠(ぬきなじろうしげただ)を父、梅菊女(うめぎくにょ)を母として出生され、善日麿(ぜんにちまろ)と名づけらたと伝わります。
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日蓮聖人縁起絵巻「御誕生」(狩野典信原図/津山妙法寺蔵)*1 |
聖人は「海人が子なり」、つまり漁師の子であったと言われておりますが、諸説あります。出自についての表現は、自らを身分の低い者と位置づけることにより、末法(まっぽう)の世における成仏の対象は、身分や能力の高下によらず、求道心ある者すべてである。むしろ苦しみ多き弱者こそ信仰心を抱かせ、成仏に導かねばならない、という法華経の根底に流れる平等観が読み取れます。
仏教では、釈尊(しゃくそん・お釈迦様)が亡くなってからの千年を「正法(しょうぼう)」時代、次の千年を「像法(ぞうぼう)」時代、そしてそれ以降を「末法」時代の三時(さんじ)に区分します。
「正法」千年の間は、なんとか釈尊の威光がおよび教えも正しく伝わりますが、千年を経て「像法」に入ると、その威光も衰えはじめ、教えも正しく伝わらなくなってきます。すると、仏像や寺塔など像(かたち)あるものを相争って造立し、教えの中身より、数や規模を誇る世の中(多造塔寺=たぞうとうじ)となってしまいます。
こうして釈尊滅後、正法・像法の二千年が過ぎ、いよいよ「末法」に入ると、「闘諍言訟(とうじょうごんしょう=争いや論争の絶えない)・白法隱没(びゃくほうおんもつ=正しい教えが隠れてしまう)」という、釈尊の威光が消え失せた濁悪(じょくあく)の時代がおとずれます。「末法は万年」とされますから、令和の現在も「末法」真っ只中なのです。
末法に入ったといわれる頃の日本は、「保元・平治の乱」、そして前代未聞の下克上「承久の変」が起こり、朝廷・貴族中心の世の中が瓦解し、武士が治める時代となります。国の形がひっくり返るような激変ですから、人々は先行きの見えない不安にかられました。加えて、毎年のように天変地異(天災)が襲いかかり、人々は生活の基盤を失い、生きる希望の見いだせない暗闇となったのです。日蓮聖人はまさにこの「末法」の夜明けともいうべき時代に誕生されたのです。
さて、釈尊は法華経(ほけきょう)の中で、この「末法」の到来と、その濁悪の時代を託す上行(じょうぎょう)という菩薩(ぼさつ)が再誕し、法華経の教えによって人々(衆生)を救うと預言されています。
日蓮聖人は法華経の教えを求め修学を重ね、この経文の預言にたどり着き「上行菩薩」の意識が芽生えます。さらに、法華経を弘める過程で、幕府や法華経を謗(そし)る人々から何度も命を狙われる迫害を蒙りますが、これも経文の預言通りでありました。こうした経緯から聖人は、「上行菩薩の垂迹*2」、すなわち我れこそは末法を託された「上行菩薩の再誕」であるとの自覚に至ったのです。後年には、釈尊を「月」、自身を「日(太陽)」に譬え、「月は光あきらかならず、在世は但八年なり。日は光明月に勝れり、五五百歳の長き闇を照らすべき瑞相なり。*3」末法の闇を照らす教主(きょうしゅ)たる確信を鮮明にされます。
私たちは、法華経の教えに身命を捧げた(南無妙法蓮華経)聖人のご生涯、さらに日興上人のお仕えする姿から、日蓮大聖人を「末法の仏さま」として拝し「法華経的な生き方」をモットーとする信仰に励んでいます。
余談ですが、釈尊が入滅した2月15日の次の日、2月16日に日蓮聖人がお誕生になっていることも、なにか不思議な因縁を感じます。
源流院においては2月16日のご報恩経はもちろん、毎年第三日曜日に「御生誕祝賀会」を催し、法華衆同士の親睦和合をはかっています。
ご生誕祝賀会の様子 |
*1 特別展 日蓮聖人縁起絵巻の世界―狩野栄川院と池上本門寺(編集発行池上本門寺霊宝殿)
*2「頼基陳状」日興筆
*3「諌暁八幡抄」
*日蓮大聖人のご生涯はあらためて掲載します。