2021年2月16日火曜日

日蓮大聖人 御生誕会(ごせいたんえ)

 2月16日は、日蓮大聖人がご誕生された日で、特に今年は、御生誕800年という大変おめでたい節目となります。

 貞応元年(1222)、安房国小湊(あわのくにこみなと=現在の千葉県鴨川)において、貫名次郎重忠(ぬきなじろうしげただ)を父、梅菊女(うめぎくにょ)を母として出生され、善日麿(ぜんにちまろ)と名づけらたと伝わります。

日蓮聖人縁起絵巻「御誕生」(狩野典信原図/津山妙法寺蔵)*1

 聖人は「海人が子なり」、つまり漁師の子であったと言われておりますが、諸説あります。出自についての表現は、自らを身分の低い者と位置づけることにより、末法(まっぽう)の世における成仏の対象は、身分や能力の高下によらず、求道心ある者すべてである。むしろ苦しみ多き弱者こそ信仰心を抱かせ、成仏に導かねばならない、という法華経の根底に流れる平等観が読み取れます。

 仏教では、釈尊(しゃくそん・お釈迦様)が亡くなってからの千年を「正法(しょうぼう)」時代、次の千年を「像法(ぞうぼう)」時代、そしてそれ以降を「末法」時代の三時(さんじ)に区分します。

 「正法」千年の間は、なんとか釈尊の威光がおよび教えも正しく伝わりますが、千年を経て「像法」に入ると、その威光も衰えはじめ、教えも正しく伝わらなくなってきます。すると、仏像や寺塔など像(かたち)あるものを相争って造立し、教えの中身より、数や規模を誇る世の中(多造塔寺=たぞうとうじ)となってしまいます。

 こうして釈尊滅後、正法・像法の二千年が過ぎ、いよいよ「末法」に入ると、「闘諍言訟(とうじょうごんしょう=争いや論争の絶えない)・白法隱没(びゃくほうおんもつ=正しい教えが隠れてしまう)」という、釈尊の威光が消え失せた濁悪(じょくあく)の時代がおとずれます。「末法は万年」とされますから、令和の現在も「末法」真っ只中なのです。

 末法に入ったといわれる頃の日本は、「保元・平治の乱」、そして前代未聞の下克上「承久の変」が起こり、朝廷・貴族中心の世の中が瓦解し、武士が治める時代となります。国の形がひっくり返るような激変ですから、人々は先行きの見えない不安にかられました。加えて、毎年のように天変地異(天災)が襲いかかり、人々は生活の基盤を失い、生きる希望の見いだせない暗闇となったのです。日蓮聖人はまさにこの「末法」の夜明けともいうべき時代に誕生されたのです。

 さて、釈尊は法華経(ほけきょう)の中で、この「末法」の到来と、その濁悪の時代を託す上行(じょうぎょう)という菩薩(ぼさつ)が再誕し、法華経の教えによって人々(衆生)を救うと預言されています。

 日蓮聖人は法華経の教えを求め修学を重ね、この経文の預言にたどり着き「上行菩薩」の意識が芽生えます。さらに、法華経を弘める過程で、幕府や法華経を謗(そし)る人々から何度も命を狙われる迫害を蒙りますが、これも経文の預言通りでありました。こうした経緯から聖人は、「上行菩薩の垂迹*2」、すなわち我れこそは末法を託された「上行菩薩の再誕」であるとの自覚に至ったのです。後年には、釈尊を「」、自身を「(太陽)」に譬え、月は光あきらかならず、在世は但八年なり。日は光明月に勝れり、五五百歳の長き闇を照らすべき瑞相なり。*3末法の闇を照らす教主(きょうしゅ)たる確信を鮮明にされます。

 私たちは、法華経の教えに身命を捧げた(南無妙法蓮華経)聖人のご生涯、さらに日興上人のお仕えする姿から、日蓮大聖人を「末法の仏さま」として拝し「法華経的な生き方」をモットーとする信仰に励んでいます。

 余談ですが、釈尊が入滅した2月15日の次の日、2月16日に日蓮聖人がお誕生になっていることも、なにか不思議な因縁を感じます。

 源流院においては2月16日のご報恩経はもちろん、毎年第三日曜日に「御生誕祝賀会」を催し、法華衆同士の親睦和合をはかっています。

ご生誕祝賀会
ご生誕祝賀会の様子

*1 特別展 日蓮聖人縁起絵巻の世界―狩野栄川院と池上本門寺(編集発行池上本門寺霊宝殿)

*2「頼基陳状」日興筆

*3「諌暁八幡抄」

*日蓮大聖人のご生涯はあらためて掲載します。

2021年2月1日月曜日

興師会(こうしえ)

 2月7日は、日興上人(にっこうしょうにん)の御正当会(ごしょうとうえ・祥月命日)にあたり、「興師会」を奉修します。

 日興上人は、今から約770年前の寛元4年(1246)、山梨県の鰍沢(かじかざわ)という所にお生れになったと伝わります。また3月7日のお誕生という資料があります。(*1)

 幼少期に日蓮聖人の弟子となり、聖人が佐渡に流された際にはお供をし、さらに聖人滅後もその教えを一生懸命に弘教された方です。

 日興上人の書かれた述作や記録、お手紙などは100通程が現存し、ご本尊も約300幅が確認されています。これは聖人のお弟子の中でも随一で、現在に至るまで大事に伝わっています。

日興上人御影画像(大阪・源立寺蔵)

 日蓮聖人は入滅(逝去)の間際に、後事を託す6人の「本弟子(ほんでし・六老僧)」を定められます。この重要な記録(「御遷化記録」)も日興上人が記されました。

 聖人入滅後、他の5人(五老僧と称します)の弟子は次第に「天台沙門(てんだいしゃもん・天台宗の僧)」と名乗り始めました。これは日蓮聖人門下に対して幕府が繰り広げた弾圧の余波であると考えられていますが、日興上人ただお一人「日蓮聖人の弟子」と名乗り、妥協することなく聖人の教えを訴え続けました。こうした聖人に対する思い、教えに対する解釈の相違が次第に表面化します。

 日蓮聖人の墓所は身延にあり(*2)、六老僧が輪番でお守りすることと決まっていました(「墓所可守番帳事」これも日興上人が記録)が、様々な事情によってこの制度は崩壊してしまいます。

 そこで駿河地方を布教拠点とし、地理的に近かった日興上人が、他の五老僧承認のもと身延に住寺され、墓所をお守りすることになりました。しかし、前述の通り解釈の相違を起因として日興上人と五老僧の一人、日向(にこう)師との間に対立が起こります。どういうことかと言いますと、当時、身延の地頭であった波木井実長(はぎりさねなが)氏の謗法行為(法華経や聖人の教えに違背すること)を日向師が黙認、ときには助長し、波木井氏も擁護してくれる日向師の路線を支持する側にまわったのです。日興上人は何度も諫めましたが聞き入られず「泣く子と地頭には勝てぬ」時代背景もあり、やむなく身延を離れる決意をされます。

身延沢を罷り出で候事、面目なさ、本意なさ申し尽し難く候へ

この決断は日蓮聖人をこよなく恋慕(れんぼ)されていた日興上人にとって断腸の思いでした。しかし、

いづくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて、世に立て候はん事こそ詮にて候え。」聖人の墓所を離れることは辛いが、いかなる場所にあろうとも、根本の師である聖人の教えを正しく継承し、世に訴えることが重要であると表明されました。これは法華経に説かれる「当知是処 即是道場」の心構えで、私たちは「身延離山の精神」として、とても大切にしています。

身延を離山された日興上人は、駿河国上野郷(静岡県富士宮市)の地頭である南条時光(なんじょうときみつ)氏に請われ、現在の大石寺(たいせきじ)の礎(いしずえ)を築かれます。(これ以降は別に書き記します)

 さて、このように、日興上人は教えに対してとても厳格な方でありましたが、優しさ、温もりの感じられるお手紙も散見されます。たとえば、京都に遊学(修行・勉強)中の弟子に対し、

御学門候覧に紙などをもまいらせず候事心本なく候

 「紙などを送ることもできず申し訳ない」と気遣われています。

 また、「供養として瓜(うり)が届けられた時、あまりにもおいしそうなので、思わずガブリとかじってしまい、それを供養を届けてくれた者に見られてしまった」というお手紙からは、茶目っ気ともいえる日興上人の人情味豊な一面も垣間見られます。

 日常的にも日興上人は、日蓮聖人の命日である13日は勿論のこと、端午や七夕などの節句の日にも、御宝前にお供え物をして聖人へ報恩のお経をあげられていた様子がうかがえます。

 このように日興上人は、聖人入滅後も生前と変わらぬ御給仕の姿勢を貫かれ、「法華聖人」であるとか「仏聖人」と日蓮聖人を尊称され、「仏さま」として拝されました。

 日蓮聖人が入滅の際に定められた六人の本弟子のなかで、聖人を仏さまと拝したのは日興上人ただお一人なのです。したがって、世界広しといえども「日蓮聖人を仏さま」として拝しているのも「日興門流」のみということになります。

 日興上人の遺誡(ゆいかい)として伝えられる二十六箇条の冒頭に、富士の立義聊かも先師の御弘通に違せざる事」とあります。

 聖人の教えを少しも違えることなく行じ、そして伝えることが大切であるということです。

 生涯、日蓮聖人をご本仏と仰ぎ、その教えを厳格に護り伝えられた日興上人は、元弘3年(1333)2月7日、88歳でご入滅されました。私たちは日興上人を「門流の祖」と仰ぎ、毎年2月7日を「興師会」と定め、日興上人がお好きだったと伝わる「芹(せり)」を御宝前にお供えし、読経・唱題申し上げます。


(*1)『家中抄(けちゅうしょう)』(大石寺17世日精)

(*2)「いづくにて死に候とも、はか(墓)をばみのぶさわ(身延沢)にせさせ候べく候

*少しザックリした説明になってしまいました。日興上人については、後日あらためて丁寧に説明したいと思います。